『こわしや我聞』超短編SS 〜GHK〜





 喧騒と歓喜とが入り混じる工具楽家にあって、『そこ』だけは静寂とともにあった。


 御輪の響きと線香の煙、蝋燭の小さな火が微かに空気を揺るがすだけの、静謐の空間。


 その静寂が、父が帰還を果たすその時まで、家長として、兄として工具楽家を守ってきた工具楽我聞の胸に、父を救い出したという満足感を凌駕するだけの明鏡止水の心を生み出していた。





 母への報告を終え、我聞は落ち着いた笑みを見せながら仏壇の前から立ち上がると―― 宴間近い茶の間へと向かうべく、廊下への襖を開いた。








 國生陽菜の働きぶりは実に甲斐甲斐しい。


 仕事はもとより、仕事と離れていてもなお持ち前の真面目さで自らのやるべきことを見出し、それを完璧にこなす。


 前社長の工具楽我也、そして、父・國生武文の帰還を祝う宴であるこの席でも、果歩を上回る的確さと速度で着々と準備を行い、果歩に『やはり陽菜さんこそが工具楽家の嫁に相応しい』と確信させると同時に、それに乗じて働かない斗馬への鉄拳制裁を実行させるほどの働き振りである。


「具材の切り込みも終わったし、カセットコンロの予備も用意してる。えっと、あとは……ビールのケースは社長が運んでたし……あ」


 準備も滞りなく終わり、あとは席に人がつくだけ、という状況である事を理解したところで、國生は宴の主役の一人である『社長』―― つまり、我聞の姿がない事を思い出した。


「果歩さん―― えっと……社長は?」


 特別な意識もないまま、ごく普通に尋ねる國生。


 だが、当然ながらGHK―― 我聞・陽菜・くっつけ委員会―― の総帥たる果歩はそうは受け取ってはいなかった。


「お兄ちゃんですか?多分、お母さんのところに報告に行っているんだと思いますけど……呼んできてもらってもいいですか?」


 さりげない物言いに隠された『些細な事でもツーショット』の意図に気付くことなく國生は頷くと、仏間への短い道へと歩を運ぶ。


 襖の向こうから微かに香る線香の香りが、確かにそこが使われている事を示している。


 仏間の中の気配が動いた。


 國生が声をかけようとした矢先―― それを制するかのごときタイミングで襖が開いた。





「あの、社長―― 準備が出来ましたので、そろそろ」


「ん…ああ、ありがとう、國生さ―― ん?」


 笑顔で國生に応じつつ、廊下へと足を踏み出した我聞。


 みしゃ。


 その瞬間、何かを踏んだ厭な感触が、我聞の足下から脳へと伝達される。


 触覚を刺激された脳がそれを確認するべく指令を発し―― 我聞の目が『それ』を捉えた。


 なんと表現すればいいだろうか―― かなり昔にマンガの主役にもなった事もあるコードネーム『G』と呼ばれる昆虫が―― 踏み潰されての無残な最期を迎えていた。


「うぉっ!!」


 コードネームで呼ばなければならないその昆虫を踏んでしまっては、当然ながら、明鏡止水の心など吹き飛ぶことも道理―― 慌てて飛びのく我聞だが、飛びのくその軌道に柱があることも、我聞は失念していた。


 ―― ごがっ!


「社長!」


 思わず助けに駆け寄る國生だが、いかに切れ味鋭い体術に長けた國生とはいえ、一瞬目を回した我聞の体重を支えるだけの力を持ってはおらず―― 二人の身体は縺れ合うようにして倒れこんでしまった。





 刻が凍りついたのは―― 一瞬にも満たない僅かな時間。


 数ヶ月前の江ノ島でGHKの面々が望みに望んだにも関わらず、ついにその目に刻み込む事が出来なかったその光景が―― 生み出されていた。


 動き出した刻とともに、國生の明晰な頭脳が現状を把握する。


「あの……社長?」


 あくまで我聞を気遣う目的で小さく尋ねる國生だが、『G』を踏んだ事による混乱から立ち直る事が精一杯だった我聞はそれを微かな抗議と捉えていた。


「ご、ごめん……國生さん!!」


 立ち上がると言うよりは、海老じみた風情で飛び退ると同時に土下座する。





 あくまで些細な事が原因の不慮の事故であり、それでことは済むと思われた。


 しかし、当事者でなければその光景はいかようにも曲解が出来るものである。


 そして、曲解・誤解する者が単純馬鹿―― いや、シンプルな性情をしているならば、その被害は計り知れない。


「てめェ我聞!ウチの陽菜を押し倒すとは何てことをしやがるッ!!」


 なにより、工具楽家はその『シンプルな性情』にことかかない家系であった


「漢たるものそんな事をしてたまるか――ッ!!」


 何しろ、新旧家長からしてこれである。


「―― いや、ちょっと待て我也。陽菜は私の娘だが……」


「気にすんな、タケ!


 表に出ろ、我聞!その腐った根性叩きのめしてくれるわっ!!」


「くっ!漢としてそのような卑怯な振る舞いは否定するが……社長たるものその挑戦は受けるッ!」


 庭に飛び出てのど突き合いに移行する我聞と我也に「いいかげんにしなさ―――― いッ!!」口ではそう言いつつも、内心では『でかした、お兄ちゃん!既成事実!既成事実!!』という邪悪な快哉を挙げる果歩。


「いやー、楽しそうですねー」


「そりゃ楽しいに決まってるじゃない♪」


 期せずして始まった親子のど突き合いに、辻原と優が内心においては異質の笑顔を並べる。


「兄ちゃんも父ちゃんも強ーい!」


「バカ!ぼーっと見てないでお兄ちゃんを援護しなさい、珠」


「ら、らじゃっ!」


 半年振りに戻った『いつもの工具楽家』の証左となる喧騒。


「その前にとりあえず……」


「廊下を拭いた方がいいかと」


 その喧騒から喧騒と一歩離れたところで―― 中之井と斗馬が呟いていた。











 当事者の一人でありながらすっかり置いてけぼりになった國生は、自分の心境の変化に戸惑っていた。


 ―― 桃子さんがあんな事を言うから。


 我聞が社長に就任した半年前―― いや、元真芝第5研所長であり、我聞らによって正道に立ち戻る事が出来た桃子・A・ラインフォードが『ガモンの嫁候補』と口走ったほんの三週間前までは一切意識していなかった『異性としての我聞』を意識してしまったからだろうか。


 彼女にはそれは掴めない。


 生まれたばかりのその感情を理解し、形を見出した上で育むにはまだまだ時間がかかるのだから。





「二人とも……その辺で」





 戸惑いながらも、裸足で飛び出した新旧社長を止めるためにサンダルを履く。


 いつものバインダー代わりに、お盆を手にして。


 しかし、いかに普段通りに振る舞おうとしても、その鼓動の高鳴りだけは―― しばらく収まりそうになかった。





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